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はっけんの水曜日
 
現実は捉えられないのか
問題の本


「図解雑学 ポスト構造主義」という本が衝撃的だった。

イラストを使って難解な現代思想を平易に説明しているので、すごくわかりやすい。とても良い本だ。

しかし気づいたことがある。内容では現実の難解さを語っているのに、その説明はわかりやすい、というのは矛盾なのではないか。この矛盾を飲み込むためには理論を実践する必要があると思った。

(text by 藤原浩一

複雑な現実を説明するイラスト

 ポスト構造主義とかポストモダニズムとかいう風に呼ばれる現代思想を乱暴にまとめてしまうと、「全体性」や「真理」といった全てを秩序立てる超越的なものはないということになると思う。

 そういう世の中では『現実』というものが捉えづらくなっている、とこの本には書いてあった。『現実』は絶えず変化し続けているので、固定化された理論で捕まえようとしても隙間からすり抜けてしまうからだ。

 なるほど現実を正しく捉えることのできない不安さというのは日常の中で実感することも多い。

 イラストを多用してわかりやすく解説するこの本は、その様子をたとえばこんな風に紹介していた。


下のほうで「理論と実践」という明確な区分はないんだと言っています。

それにしてもこの現実はありなのか。


 「『現実』をそのまま見ることはできず、理解という実践を通さねばならないので、理論と実践を分けて考えるのはごまかしがある」という説明に使われたイラストだ。わかりやすい。

 しかし、このわかりやすさと、「現実は複雑である」という内容は矛盾しているのではなかろうか。

 このままではまだ理論を理論としてしか捉えてない気がする。理論と実践は分けて考えることはできないのだ。

 ではどうしたらいいのか。


現実ボードをつくりました。

ピアノ線で吊って使います。。


 前置きが長かったが、イラストに書かれたような「現実」をこんな風に作って、実際に人間の前に突きつければいいのだと思う。これで理論と実践が再び教会を失うのである。そうか?そうだよ。

 

突きつけられる「現実」

  用意した「現実」だが、「これはこういう意図でやってます」ということを僕が説明してしまうと、「現実」が現実性を失ってしまう。なのではじめは単純な印象を尋ねることにした 。すなわち、

「Q.どう思いますか?」

 ということである。

 例によってまずはバイト先の方々に協力していただいた。


うーん…。

現実かあ…。


 最初のお二方から得られた回答は

  • 「う〜ん・・・ゲンジツ・・・」
  • 「現実・・・現実かあ」

 というようなものであった。

 「現実」を突きつけられた人間は、現実を現実と認識はしつつも語るべき言葉を持たないということを観察することができると思う。やはり「現実」は捉えがたいのである。


突如として現れる現実。

 続いての女性の回答は

  • 「びっくりした」
  • 「近づいてくるのは分かったが、想像と違い、突然来た」

 とのことである。

 「現実」の捉え難さは、自己と「現実」との距離感を常にあやふやにしている、ということがよくわかるコメントだった。


現実。

 次に釣り好きの男性に突きつけてみた。

  • 「会社で何やってんの?」
  • 「なんだか馬鹿にされている気がする」

 だそうだ。

 前者の答えは現実ボードを釣り下げる僕に対する答えなので除外する。翻って後者は個人の内面が反映されているものと思われる。「現実」は「現実」としてあるだけで馬鹿にしていたりしないからだ。

 ただ単に「現実」を突きつけただけでも反応は多様である。現実の多様性とはこのことだろう。

 

現実とたわむれる人たち

 今度は場所を移動してカルチャーカルチャーへ。

 本日はデイリーポータルZのライターの方が何人か撮影のために集まっていた。


撮影中


 あんまり邪魔をするわけにはいかないので、何枚か撮らせてもらったものだけを紹介させてもらう。

 まずはこれだ。


夜景・天狗・現実


 あんまり現実っぽくはないが、現実だ。現実って書いてある。

 日が暮れかけたお台場の風景をバックに天狗のお面と「現実」の表記。安易な解釈を拒む、複雑に要素が絡まった状況か、あるいはいじめられているだけかだ。

 続いてこちら。


形而上の現実


 たまたま現実が大北さんの頭の上に来ているが、これだけで何か現実についてモヤモヤ考えているように見える。あるいは現実が人間を押しつぶしている。でもたぶん本人はそんなことを考えていないだろう。

 以下の写真が証拠だ。


形而下の現実


 現実が大北さんの真ん中に移動しただけで感じ方が大きく違うと思う。

 「現実」そのものの性質はきまりきったものではなく、人間との位置関係によってその意味が生まれてくる。これも「現実」の姿なのかもしれない。

 

現実について

 続いて今度は小学生の時からの友達3人にも付き合ってもらった。


反応なし

ゲームに夢中


 一人目も二人目も反応が全くない。どうしたのだろうか。片方に至っては、PSPを取り出してゲームなんかやっていたりする。「現実」を目の前にしても「どう思う?」と聞いても反応はなかった。

あとひとりはどうであろうか。


効果がないのはなぜだろうか。

 残り一人も同じような結果となった。「現実」との距離とが足りないのかと思ってくっつけたりしてみてもあまり変化は見られない。


全然だめだ。

 いったいどういうことだろうか。そう思っていたがようやくここで気付いた。

 「語りえぬことについては沈黙せざるを得ない」

 ウィトゲンシュタインの言葉である。「現実」は複雑に変化し続けるので語った瞬間に、その言葉から逃れて行ってしまう。彼らたちは沈黙することでそれを表現したのである。たぶん。

 過剰に現実

 ただ平然と過ぎ去る日常なのに、それを「現実なんだ!」という風に強調されるとメッセージ性が強くなりすぎて違和感を感じることがある。なぜなら本来の現実は現実だってことを自ら強調させたりせずに、ただなんとなくあるものだから。

 現実を現実として形のあるものとして捉えようとすると、今回の試みのように上滑りをし続けてしまうのである。

捉えきれない現実。

 
 
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