デイリーポータルZロゴ
このサイトについて


ひらめきの月曜日
 
畑越しの幕張新都心と祖父の思い出

ここも幕張

いよいよ祖父の家のある長作町へ・・・。

バスに揺られて祖父の家がある長作町という町の最寄りのバス停で降りた。この辺りは旧家が多く、典型的な田舎の集落といった風情がある。

祖父の家はバス停から地主さんの大きな家を越え、農道を歩くこと数分である。

祖父の住む街が人口90万人近くの大都市の一部である、というのは子供心に納得がいかなかったが、ある年、もっと納得の行かないことが起きた。毎年祖父の家から贈られてくる郵便物の住所が『千葉市長作町』から『千葉市花見川区長作町』に変わったことだ。政令指定都市に変わったことを意味する。祖父の住んでいる家が、大阪市内と同じ○○区で配達されるのは、子供心に納得が出来なかった。

ここも千葉市花見川区
ここも政令指定都市

 

当時、高層ビルが見えた畑
写真左側に見える家は以前はなかった。
バスの車窓から。遠くにうっすら見えるのが幕張新都心。

永遠に続く畑と高層ビルが見えた場所

写真左が祖父の家の前の農道である。今思うとたいしたことのない農作地だが、子供心には、すごく大きな畑が広がっていると感じた。写真左側に見える家は当時なかったのと、関西で育った僕には視点の延長線上には山があるという風景だったので、関東平野の、永遠に広がる農作地という光景はすごく新鮮だったという記憶がある。

そして、この農作地の向こうには、幕張の新都心がどーんと控えていた。取材日は雨に加え濃霧が強かったので、畑越しの都心の風景を見ることができなかったが、この写真の奥にビルが数本建っていると思ってください。異常な光景だと思いませんか?

どんどん増えるビルの数と僕の焦燥感(と立小便)

この高層ビル。今思えば不思議でもなんでもないが、当時は不思議だった。間違い探しの絵だったら、ビルに○をしたいところだった。『農村地帯にビルはおかしい、だから間違い』と。

しかもこの高層ビル。帰省するたびに個数が増えていった。じっくりそのビルを眺めていると、不思議な焦燥感に襲われた。僕も何かせねば。何かやらねば。当時の気持ちを説明することは難しいが、とにかく増えていくビルに妙に焦っていた記憶だけは鮮明に残っている。

そうやって畑越しのビルをぼんやり眺めていると、地元の人が向こうからすーっとやってきて、おもむろにチャックを下ろし、立小便を始めた。

この近所の人は自分の畑でよく立小便をしていた。今思えば、畑の肥料にもなるし、合理的なのかもしれないが、ある種のカルチャーショックを受けた。

立小便は僕の焦燥感に水をさすのに充分だった。

 

 
 

近所の神社へ

高層ビルの写真をあきらめ、祖父に連れられていった神社に行ってみることにした。神社は急な坂道をのぼった場所にあるので、近隣の集落を見下ろせ、とても見晴らしがいい。山にあるということは、きっと自然崇拝の延長上に、神社になったのだろう。

祖父は僕と居るときは、照れかくしでつまらなさそうに歩いていた。

祖父は一言で言えばとても頑固な人だった。とても口うるさく、僕や僕の母を執拗に叱った。甘やかしてはいけないという祖父の優しさだ、と気づいたのは僕がずっと大人になってからである。子供である僕には、ただ口うるさくて、頑固で、怖い存在だった。僕がドリフの大爆笑をテレビで見ていると、『そんなの見ているとバカになる』と言ってテレビを消し、将棋で対決して負ければ『だからオマエはダメだ』と罵られた。ただ将棋で負けただけなのになんでこんなに怒られなきゃいけないのだろう・・・。と子供心に思った。

その代わりと言ってはなんだが、アメとムチの要領で、祖母はとても優しかった。しかし、僕が小学生に入学すると同時に死んでしまった。

僕の記憶に最も鮮明に残っている祖父は、祖母の葬式会場での場面である。周囲の人や母がオンオン泣くのに対し、祖父は一切涙を流さなかった。ただひとこと

「湿っぽいのは嫌いだ。足をくずさせてもらうよ」

とつぶやき、足を崩して何も言わず酒をちびちび呑んでいた。いつも礼節にうるさく、僕があぐらをかくと怒る祖父が、その日あぐらをかいていたのが僕には驚きだった。

祖父の人となりをよく表すエピソードだ。

 

畑越しの新都心が見えた!

祖父のことを夢想しながら神社をうろうろしていると、ついに畑越しの幕張新都心が望める場所に着いた。

今回一番見たかった光景。畑の先に浮かぶ高層ビルを目撃できました。ほんと、天気が悪いのが悔やまれるが、霧が薄ければもっと近くに高層ビルを感じることが出来ると思ってください。


ちょっとアップで撮影。

畑。高速道路。高層ビル。僕の原風景です。都会ってなんだろう。田舎ってなんだろう。

 

祖父の家に向かう道を歩く。
祖父の家の前の坂は、今知ったがトンネル坂と命名されていた。確かに、トンネルの中のように暗い。
かつての祖父の家。

いよいよおじいちゃんの家へ

畑越しの高層ビルが確認できたので、最後の目的地として、祖父の家へ向かった。正確に言えば、かつて祖父の家であった場所である。祖父は5年ほど前に死んでしまって、家も売ってしまった。

祖母が死んでしばらくすると、僕も受験勉強やその他のことでとても忙しくなり、いつしか帰省する回数が減っていった。母は高齢で一人で暮らす祖父に、何度も一緒に暮らそう、と提案したらしい。しかし頑固な祖父は「わしゃ大阪なんか死んでもいかん」と言いだし、かたくなに千葉を離れようとはしなかった。(ちなみに、祖父の生まれは東京都で、千葉が地元というわけではない)どうも自分が同居することによって娘の家族に迷惑をかけるのが許せなかったようだ。

誰かの迷惑になるぐらいなら、一人で過ごしたほうがいい。そんな祖父の気持ちは僕もよく分かる。

祖父はプライドが高く、気高く、そして偏屈だった。

祖父は祖母が死んでからというもの、周囲の町内会などの会合にも足を出さなくなり、家で気ままに過ごした。普通、祖母が死んだら、祖父も後を追って程なく・・・と言うのが世間の常識のようだが、祖父は祖母が死んでから14年も生きた。14年もの間、テレビを見て、出来合いの食事を取り、身体を壊して入院を勧められても拒み、ワシは家で過ごす、と入院を拒否して家で本当にだらだらと過ごした。

祖父の最期の10数年に思いを馳せる

祖父に対する現在の僕の一番の興味は、祖父の晩年、一人で過ごした十数年である。いったい、この決して短くはない期間、何を考えながら過ごしていたのかがとても気になる。貯金もあったし、年金ももらっていたのでお金の心配をする必要もなかった。祖母はもう死んだ。つまり、祖父には一人で過ごす莫大な暇があったはずである。その間、何を考え、どんな行動をとっていたのか。それがとても気になるのだ。

祖父はとても話しかけづらい雰囲気のある人で、子供の僕にはなおさら怖くて祖父に質問することなどできなかった。今は僕も大人なので、祖父に思う存分質問をぶつけられると思う。だが、祖父はもう居ない。だから想像するしかない。

祖父の晩年はそのまま自分の晩年をどう過ごすのか、という意味で自分自身の問題でもある。

ただ、祖父のことを考えて僕が思い至ったこと。

孤独死だとかなんだとか言うが、人生には孤独なんてたいそうなものは存在しないんじゃないか。同時に勝ちも負けも存在しない。どの人生も等しく退屈だ。そして、人生には大いなる暇がある。

祖父はとてもわがままな人だった。しかし、僕は祖父を尊敬している。

そういえばこのあたりは鉄塔が多かった。僕は暇になるといつも鉄塔の数を数えてました。

祖父は僕の現状についてどう思っているのであろうか

母は一人っ子であった。だから、祖父にとって血の繋がった子供は母だけである。そして、僕もまた一人っ子である。だから、祖父にとって唯一の孫がこの僕ということになる。そんな僕が、祖母が死んだあとの晩年、ほとんど会いに行けなかったことは少し心残りだ。

しかし、祖父の性格を考えると、そんなことはたいした問題じゃないと思っていそうだ。むしろ一人で過ごしていればやりたいことが出来て、近所に住んでいる無二の親友のMさんと一日中将棋に明け暮れることができたと思っているだろう。

祖父はまた、僕に「偉い人になれ」と口うるさく言った。先生と呼ばれる人になれ、と。先生と呼ばれる職業は教師か、医者か、弁護士か、政治家あたりだろうか。僕はそのどれにもなれなかった。

そのことを先日知人に話していたら、「物書きも立派になれば先生って呼ばれるじゃない」と話していた。確かにそうだ。今の僕は冗談かイヤミでない限りセンセイなんて呼ばれないが、この職業をずーっと続けていれば、いつかは僕もセンセイになれる可能性はある。

僕は案外、祖父の教えを従順に守ろうとしているかもしれない。


 
 
関連記事
おしえて、おじいさん
路線バスだけでどこまで行けるか
建築模型を作る〜思い出の家編

 

 
Ad by DailyPortalZ
 

▲トップに戻る バックナンバーいちらんへ
個人情報保護ポリシー
© DailyPortalZ Inc. All Rights Reserved.