カンチョーという心の窓から見える銅像たち
少年時代にカンチョーの戦火をくぐり抜けたという経験は、人格形成に大きな影響をおよぼすことは容易に予想がつくだろう。私の危機察知能力の基礎は、あの頃培われたものだと思う。
どちらかと言うと受け手に回ることが多かったあの頃。今回のプレイでは、ノーリスクで刺し手に立つことができる。
先ほどのページでは既存の写真で試してみたが、新たなるターゲットとの出会いも求めたい。やってきたのは東京を代表する公園のひとつ、上野公園だ。
有名な銅像もあるこの公園。カンチョープレゼンターとしても正装して臨もうではないか。
上野公園と言えば、真っ先に西郷隆盛像を思いつく方も多いはず。それほど有名な像だが、表情まで思い浮かべられる方はそう多くはないとも思う。改めて確認してみよう。
さすがは維新の志士である。背後からのカンチョーという卑屈な攻撃にあっても、全く動じることはない。こうしたときにも平常心でいられるというのは並大抵のことではない。
幕末の動乱から比べたら、カンチョーなどは小さなこと。度量が小さいことを「けつの穴が小さい」というが、確かに尻の穴が小さかったらカンチョーされたときのダメージも大きくなるだろう。そういう意味でも、この像からは西郷隆盛の 豪傑ぶりがよくわかる。
続いては同公園内の科学博物館前にある野口英世像。こちらもお札の肖像になるほどの偉人だ。同じカンチョーをするのでも、クラスメイトを気軽に狙うのとは違う緊張感を感じる。
さすがは偉大な細菌学者だ。突然のカンチョーにあったところで、あくまで冷静に対応。ガチャーンと派手に試験管を落っことしたりはしない。
もし、試験管の中身の細菌がばらまかれたりしたら、「カンチョーしてごめんなさい」では済まない話になってくる。カンチョーするにもTPOは考えるべきだと反省させられた。
続いては同公園内にある国立西洋美術館。ここの庭にはロダンをはじめとする彫刻作品が展示されており、訪れた者は誰でも自由に鑑賞することができる。
美術の教科書で見たことのあるような有名作品が居並ぶこの庭。まずはロダンの「考える人」を見てみよう。肉体のリアリティはこの場合、本物の人間に臨もうとしているような緊張感を生む。
沈思黙考しているゆえ、気づかれずに後ろに回ることはたやすい。そして自然と無防備になる。素っ裸なので、エントリーする側も覚悟が必要だ。
真剣に考え事をしているときにカンチョーされるほど腹の立つこともない。その表情に垣間見える苦悩は、考え事の内容とカンチョーされたこととが複雑に絡み合った結果なのだろう。
カンチョーのダメージで立ち上がれないままでいる間に、走って逃げたくなるほどの本気顔。かなりがっちりした体格なので、捕まったらただでは済むまい。
さて、ここまでカンチョーされまくってきた銅像たちだが、いつも被害者側に回るというわけではない。
同じく西洋美術館の庭には、ロダンのアシスタントでもあるブールデルのヘラクレス像もあった。これまで見てきた像とは異なり、かなりアグレッシブなポーズ。
弓はあくまでフェイクで、実際はカンチョーをしようとしているところなのだと思う。しかもヘラクレス。命に関わるくらいのことも考えておかなくてはならない。
力みなぎる鍛えられた身体。何もカンチョーでそんなに本気出さなくても、と言いたくなるくらいの本気度だ。ただでさえヘラクレスなんだし、ちょっとは手加減しないと取り返しのつかないことになる。カンチョーにしては失うものが大きすぎる。
あくまで美術作品と見れば、カンチョーの可能性を最大限に引き出した傑作とも言えるだろう。だからこそ見ていて心配になってくるわけだ。
有名な「地獄の門」の両隣にあるアダムとイブの像は、イメージプレイをするまでもなく、打ち込みの瞬間を捉えたようにも見える作品だ。ポーズに被害者としての 真実味がある。
アダムとイブと言えば、最初に創造された人間とされる二人。人類の苦悩を予言するかのようにも見える。
子供時代のカンチョー戦争から解き放たれた大人のカンチョー回帰。精神の自由を知る大人ならではの悦び。
実際にカンチョーをせずとも、カンチョーという現象はそこにある。物事を心の目で見ることができれば、想像と現実の区別をつけることに大した意味はないのだ。
お尻の安全と、やるかやられるかのスリルを同時に求める人間の矛盾した欲望。今回の銅像めぐりは、その境界線上を歩くような試みだったのだろうと思う。