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 GWとくべつ企画 ノーパン6本勝負
  ノーパン神社参拝

  人は皆、ノーパンでこの世に生まれ落ちる。そしてほどなく、おむつを端緒にパンツを履き続ける生活を送ることになる。下半身の安定した生活がそこにある。

 しかし私たちにとって、パンツは本当に必要なものなのだろうか。単に習慣から、なくてはならないものだと錯覚しているだけという可能性はないだろうか。

 大切なものは、無くして初めてその価値がわかるとも言う。だとしたら、パンツの価値を確かめるには、ノーパンに立ち戻るしか術はない。

 パンツの意味を確かめる。それは内なる自分と向き合うようなものだろう。そんな行為にふさわしい場所として、私はとある神社に向かっていた。 (小野法師丸)

ノーパンになって人類について考える

  諸説あるようだが、アフリカでアウストラロピテクスから分化してヒトが誕生したのは、およそ200万年前と言われている。この頃、私たちの祖先はまだパンツを履いていなかった。人類の進化について調べてみても、パンツのことについては特に触れてなかったのは自明のことだからだろう。

 現生人類であるホモ・サピエンスの登場も25万年前までさかのぼる。もちろんまだパンツレスだ(と思う)。

ノーパンであることに気を取られず安全運転 春の野に立つノーパン

私たちがパンツを履く習慣は、人類の歴史からしたらまだごく短い期間のことでしかない。僕らはとても長い間、ノーパンのまま風に吹かれてきたのだ。

 そういう意味でも、ノーパンになることは生命としての自分の原点に立ち返るということにもなる。

野の花もいつもよりかわいらしく見える

 道ばたに咲いたタンポポが普段よりも親しげに感じられる。それはきっと、パンツという文明を脱ぎ捨てたからなのだろう。ダイレクトなズボンの感触は自分の中の野生を呼び覚ますようでもある。

 そんな私が訪れたのは、茨城県那珂市にある「静神社(しずじんじゃ)」というお社だ。

立派な鳥居の下で 知らず知らずポージングに自分の内なる状況が反映

 創建の時期は不明というくらいに歴史のあるこの静神社。少なくとも1100年以上前にあったようで、こんな私が内なる自分と向き合うのにはもったいない格式がある。

 鳥居の下で撮った写真にも、自分の置かれている状況がそこはかとなく表れている。意図的にこうしたポーズをとった覚えはないのだが、股間を通り過ぎていく春風のいたずらに無意識のうちに抗おうとしているようだ。

ノーパンには酷な階段 自分に打ち勝て!

 参道の石段は結構な角度で、いつもより衣服が一枚少ない私を試すかのようだ。平らなところを歩くよりも、階段を上るのは下半身に負担がかかるだろう。

 そんなことに怖じ気づいていてはいけない。始めはゆっくりと、そしてすぐに意を決して駆け上がる。

 サッ、サッ、サッ…。心の内面というよりも、明らかにフィジカルな刺激がリズミカルに私を襲う。そうなのだ、パンツを履かないで階段を駆け上がると、いつもより刺激的なのだ。

いいちこのコマーシャル的な気分で

 パンツを履く意味のひとつは、刺激の軽減ということなのだろう。早くもひとつの答えを得つつ、木々の深い参道を歩いていく。静寂な空気とノーパンという状況とが打ち消しあって、トータルではプラマイゼロ。参道は祀られている神様に失礼に当たらぬよう、端を歩くのが礼儀だ(Wikipediaで予習した)。

ノーパンが体をむしばみつつあることがわかる表情 私を戒めるかのような織姫像

 ここ静神社の主祭神は「建葉槌命(たけはづちのみこと)」という武神。またの名を「倭文神(しどりのかみ)」という織物の神様でもある。そう、数ある神社から静神社を選んだ訪れたのは、パンツを担当する神様とも言えそうだからだ。

 最も大事な織物を履いてない状態で、織物の神様と向き合う。そうすることで大事なものが見えてくるのではないだろうか。

 境内には織物業者が奉納した織姫の像もあった。穏やかな表情を浮かべながら、私に「なんで履いてないの?」と問いかけているようでもある。

立派すぎて申し訳ない気持ちになる拝殿 「こんな僕ですが…」

 拝殿はとても立派なもの。ノーパンという悪と、神社の厳かさがせめぎ合う。

 パンツレスな内面と、参拝という神聖な行為との間で引き裂かれそうになる気持ちを抱えたまま手を合わせる。今後の私の、いや、全人類のよきパンツライフを祈願。

 ノーパンは人を背徳的な気持ちにさせるもの。しかし、心静かに参拝したことで邪心が浄化されたようにも感じる。

どこかで見たことある形 割とライト感覚

 自動おみくじ機に200円を入れると出てきたのは、リボンの形に「おみくじ」と書いてある予想以上にポップなもの。なんだか見覚えあるなと考えて思い出したのは、Wordのオートシェイプだ。

 開くと、わかりやすく「大吉」と書いてあった。大吉だからまあうれしいんだけど、ラッキーシールなるものがついていたりと、そういうもんかな…という気持ちにもなる。

「金運アップ」とか、親しげすぎないか

 各項目の詳細もわかりやすい。この時の私の「願い事」と言えば「早くパンツを履きたい」ということになると思うが、それについては「時間がかかるが必ず叶う」。時間、かかるのか…。

 「捜し物」は言うまでもなくパンツだが、こちらは「高いところを捜せばすぐに見つかります」とのこと。高いところって、どこに行けばいいのだろう。

記念に… 「パンツお守り」というダイレクトなのは見当たらず

 社務所には家内安全や学業成就のお守り類がたくさん並べてあるが、ずばりパンツ系とわかるものは見つけられず。

 神社の方に「ここは織物の神様だと聞いたのですが、そちら方面のものはありますでしょうか」と聞くと、「お守りではなく、お札のようなものになるのですが…」と奥から出してきてくれた。

これで安泰のはず

 しっかりと「織物祖神」と書かれている。パンツピンポイントではないが、守備範囲内だとは思う。

 お金を納める際に「織物業界の方ですか?」と聞かれたのには「いや、まあ…」とぼかして対応。「ノーパンなので」と答えたところで、話がややこしくなるだけというか、自分で言っていても脈絡がよくわからない。



 訪れたときの緊張感とは対照的に、穏やかな気持ちで帰りの鳥居をくぐる。僕はまだノーパンだけれども、心はもうノーパンではない。股間を通り過ぎる春風もあたたかく感じる。

たぷんたぷんの溜め池

 神社の前には溜め池がある。訪れた前日は雨だったこともあってか、水量がかなり多い。

がんばれ、俺もがんばるから

 放水量を調整しているのか、堰には板がはめ込まれている。でもそれは心配なくらいに薄い。

 そこにその板はないだろうと疑問が湧くくらいに心許ないその様子。じっと見ていると、未だノーパンである自分をこの板に重ねていた。ここでくじけてはいけないのだ。

 これから先、何か辛いことがあっても、この板のことを思い出せばがんばれそうな気がする。まずは家に帰って清冽な気持ちでパンツを履こう。そんな風に思いながら、神社を後にした。


< ノーパンで行く動物園 △いちらん ノーパン写生会>
 


 
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